<哲学>の主観性と「哲学」の客観性の比較としての<私>論 (1999年12月発表・2004年12月24日最終更新) by 名本哲也 目次 (1)「記号」について−−一般と独在 (2)独我論の種類−−4つの独我論と隠蔽 (3)2つの思考実験 (4)<私>の<存在>−−<奇跡>と<偶然>と偶然 (5)伝達と論理の限界−−2つの変質(=読み換え) (6)<私>と<今>の結び付き−−独<我>論と独<今>論の関係 (7)<哲学>の主観性と「哲学」の客観性の比較 (8)自我と概念の根本的な領域の違い (9)独<我>論を語る意味 ○はじめに この文章は、永井氏の読者用に書かれているため、全く読んでいない人 はもちろんのこと、読んでいる冊数が少ない場合(論点は1冊でも「理解」 できると思われますが)は言葉の関係上わかりにくいことをここで断って おきます。 なお、以下の論文は、基本的に永井氏の主張に賛同するものであるが、 その解説及び部分的な批判がなされ、最終的には変質の原因の出発点にお ける見解で締めくくられており、「全体的な肯定または否定を前提とした 見解は、哲学的思考とは相反するものである」ということを述べておきた いと思います。 (ただし、ディベートは相手を説得あるいは論破する実践的な方法として 有意味だとは思いますが・・。) ・「表記」について 哲学者の勝守真氏の精密な論じ方に習って、以下のように表記します。 参考:「他者の語りとしての<私>論」 (雑誌の記事ですが、何の雑誌は忘れてしまいました・・。) WM−−<私>のメタフィジックス TT−−<魂>に対する態度 WS−−<私>の存在の比類なさ KT−−<子供>のための哲学 SI−−翔太と猫のインサイトの夏休み WN−−ウィトゲンシュタイン入門 この表記の後につける数字は、ページ数です。そのページ、またはそれ に続くページを参照しているということです。あくまでも「引用ではなく 参照」ですのでご注意ください。 (1)「記号」について−−一般と独在 (WM75)(TT174)(TT178)(TT205)(TT230) 「」−−記号内の概念が、一般概念であることを指す。 <>−−記号内の概念が、独在的概念であることを指す。 さらに、勝守氏の独自の表記によれば、 「<>」−−記号内の概念が、他人にとっての独在的概念であることを指す。 となります。 ”他の<私>”という表現は、定義から矛盾表現となります。 (TT233)(WS49) ・語り得ぬもの 永井氏は、「その私」と表記し、「その」の上に点をつけ、<私>を表 しています。しかし、それはさらに変質が生じることも述べています。 (TT223) そして定義として、”<>の表記で表されるものは、複数ではあり得ない” ということになります。(TT229) しかし、厳密さを優先した表現を用いると、どうしても”同語反復によ る置き換え”(だから変質が生じない)になってしまい、結局、「語る」 ことはできるが、<語る>ことはできない(つまり何も説明していないの と同じ)ということになります。 (「語る」とは一般化された私(<私>が変質したもの)を語ることであ り、<語る>とは<私>を語る(相手に伝える)という意味。) ですから、「論理哲学論考」で有名な「語り得ぬものは、沈黙すべきで ある」という文は、「<語り得ぬもの>は、<沈黙>すべきである」とな ると考えます。ですから、それに対して、「「沈黙」する必要はないし、 「語る」ことはできる」という批判は、的を得ていないことになります。 (TT209)では、ウィトゲンシュタインの「独我論は語り得ぬ。 それは自ずと示される」に対し、「独我論は語られ得るが、その語りにお いてその否定が自ずと示されるのだ。」となっていますが、前者の「語り 得ぬ」という意味を「伝達することはできない」ととれば、後者は「伝達 しようとすると、その内容を否定することになり、結局伝達できない」と いうことになり、前者と後者は一致し、決して相反するものではないこと になります。(KT100) つまり、「<語る>ことはできないが、「語る」ことができる。しか し、変質する」ということです。 ・<私>は何で”ない”か? 身体や記憶などがすべて変化しても、<自己>の同一性は<私>によっ て保たれます。(TT207) しかし、自己を形成する性質をすべてなくしたもの、つまり脱人格的自 我が<私>というわけではないことに注意しなければなりません。 精神ではない。(WM60,63) 自己意識ではない。(WM60)(KT52) 反省意識ではない。(KT49) 自我ではない。(KT49) 近代的自我ではない。(WS03) (2)独我論の種類−−4つの独我論と隠蔽 永井氏の解説を参考に、独自の言葉を用いて、独我論を以下のように 分類することにします。 1.特異的存在論的独我論=独<我>論=<私>の独我論=独在論 2.普遍的存在論的独我論┐ 3.特異的認識論的独我論│独「我」論=「私」の独我論 4.普遍的認識論的独我論┘ なお、永井氏は、”<私>論”という言葉を使ってないかもしれませんが、 <私>の独我論の省略形として、その言葉を用いることにします。 「私」の独我論(WM9)、普遍的な独我論(KT38) 認識論的独我論(KT44)(WS66)、「世界霊魂」の独我論(WS48) 諸主観離在論(WS66)、体験に関する独我論、規範に関する独我論(WS70) ・他人と他者(TT202) 他人−−動作からそのように見なすもの。心も動作から定義し、その存在 を前提とする。 他者−−他人+魂(他我) WMでは、他者を「他人(他我)」と表記しています。上記の他者の定 義は、独自に表現し直したものですが、それはまさにこの表記と一致しま す。 ・残骸としての独我論(WS70) 3、4の独我論が、1の独我論を隠す働きをし、1の問題が変質により消 失することにより、2の独我論が生じます。 2〜4の独我論は、1を問題にする者からすれば、残骸としての独我論な のです。 ・3と4の違い 3の意味するものは、仮に認識論的に見て、他人の心を知りうるとして も、その<知り方>が異なっているため、他者を知り得ないということに なります。(WM6) 3.他我を知り得ない。 4.他人を知り得ない。(他者も知り得ないが、それには言及していない。) ・存在論的独我論と他者の存在 存在論的独我論は認識論的独我論を否定するものではなく、ウィトゲン シュタイン流に言うならば、文法形式として正しく、むしろ前提とされて います。(WM7) このことは、経験的事実ではないのです。(KT40) 存在論的独我論でも、他者を知り得ないことは前提とされていますが、 他者の「存在」は可能世界として前提となっています。(SI98) そして他者の存在を知り得ないことが、他者が「存在」する根拠です。 というよりも、それが、他者の「存在」の定義であり、それによって、他 人が定義されるのです。 それはブラックホールの中心の特異点が「存在」すると表現するような ものです。 (特異点の存在を観測できたら、それは特異点とはいえなくなるのと同様 に他者の存在を知り得たら、それは他者ではなくなる。) (3)2つの思考実験 1.<私>不在の世界 (KT52)(SI95)(TT173)(TT187)(TT225)(WS17)(WS30) <私>と他者の属性がすべて入れ代わった場合( (KT86)(SI52)(TT186) <私>が世界から消滅しても、誰もその変化に気付かない。その世界も変 化しない。 全宇宙において成立しているあらゆる事実をすべて記載した書物には、 <私>は記載されない。(WM77)(WS31) 2.<私>の属性がすべて変化した場合(TT207) <私>の属性が特定の属性と結び付いた時(生まれた時)から、違っ ていた場合(TT226) 今度は逆に差異は見出せても、共通性が見当たらない。 ・<私>の分裂の思考実験 (WM89)には、<私>の分裂の思考実験がなされていますが、その 具体的内容以前に、そもそも<私>が分裂することは「文法的矛盾」であ り、意味のない思考実験だと考えます。 そしてこの思考実験は、2種類の読み替えが生じてしまうというより、 生じるような設定をわざわざ選んでいます。しかし、スタートで矛盾して いるわけだから、矛盾した結論が出るのは当然だといえます。 ありうるとしたら、肉体が分裂し、視界などがだぶる、あるいは心が分 裂し、同時に多数の処理をしながら、その処理全体を把握しているという ことになります。 (4)<私>の<存在>−−<奇跡>と<偶然>と偶然 1.<私>が<存在>することの<奇跡>(<存在>しない場合との対比) (KT65)(TT173)(TT185)(WS29)(WS34) ・<私>と他人たちとの、特別な違い方(KT58) ・<偶然>といっても、確率的な少なさではない。(KT63) ・必然的でない。(SI95) ・偶然とは言えない。(SI203) ・決定的でない。(WS27) ・無数の人間のどれも私ではないこともできたはずなのに、実際にはそう なっていない。(WS74) 2.<私>が特定の人物であることの偶然(KT94)(TT227)(WS34) ・確率的な偶然となる。(KT64) ・過去・現在・未来の無数の人間のうち、この人間が、そしてこの人間だ けが、私であり、他はそうではない。(WS74) (5)伝達と論理の限界−−2つの変質(=読み換え) (WM86、87)(TT190) ・<私>は、<私>としか表現できない。相手に伝達しようとすると必 ず、2つのいずれか、あるいは両方の変質が生じる。 (<私>=<魂>=<ぼく>)(KT57) だから語り得ぬ(伝達できない)ということになる。 語る場合は、「<私>は何でないか?」を述べるか、変質の問題を自覚 して語るしかない。(TT193)(TT221) 1.人間実在依拠型の<私>把握 −−<私>から、特定の人物への変質 (WM86)(WS24) 2.「私」概念依拠型の<私>把握−−<私>から、「私」への変質 (WM87)(WS24) ・<私>の変質された記述、及びその修正 不在の実体(WM73)→不在の<実体> <私>は<主観的>には、実在する。(WM78) →<私>は<主観的>には、<実在>する。 チェスのキングに冠をかぶせる。(WM79) →チェスのキングに<冠>をかぶせる。 文法上の位置が同類を持たない位置にある。(KT72)(TT190) →文法上の位置が同類を持たない<位置>にある。 先に述べたように、修正すると同語反復になってしまいます。 (もちろん、同語反復だからこそ必然的にその説明は真ではあるが、世界 に対しては何も説明していないのと同じになってしまう。) ・<私>の変質しない記述 <奇跡> 存在するとは言えない場所に<存在>する(WM75)。 <私>は<実在>する(WM78)。 (ただし、それらの記述は、他人に説明するためのものではなく、自分の 中での<理解>である。) ・自己破壊的(「理解」と<理解>)(KT60)(KT99)(TT190) ウィトゲンシュタインの「ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は だれひとりとして私の言うことが理解できないのでなければならない、と いうことである。」という言葉は、他人が理解したとしても、必ず変質が 生じてしまうことを意味しています。永井氏は、これを「理解できても、 賛成はできない」と表現しています。 つまり、「理解」できても、<理解>はできないのです。つまり、 <理解>できるということは、ウィトゲンシュタインの「<理解>」を否 定することになります。これを永井氏は、「自己破壊的」と呼んでいます。 (WN137) ですから、「ここで本質的な点は、私がそれを語る相手はだれひとりと して私の言うことが<理解>できないのでなければならない、ということ である。しかし、「理解」することはできる。」と表記すべきだと考えま す。 つまり、 <理解>−−変質されていない理解 「理解」−−変質された理解 さらにこれを、「<理解1>できないのでなければならない」という発 言に対し、「<理解1>はできないが、<理解2>はできる」、あるいは 「<理解1>はできないが、「<理解1>」はできる」となります。 一見すると、<理解2>=「<理解1>」に見えますが、そうではあり ません。 <理解2>−−理解する側の内部での独在的理解 (自分の内部でしか処理していないため、変質は生じない) 「<理解1>」−−理解する側の内部での独在的理解を、相手にもあると 考え、一般化されてしまった変質された理解 これを言い換えると、<私1>を相手は理解できないが、<私2>を理 解することはできるということになります。 そして、語り得る(伝達できる)から、相手が<理解2>したのではあ りません。なぜなら、それは語り手が示したものを、<理解1>したわけ ではないからです。 このことは、相手が<理解2>した場合は、「始めから知っていた」と いうことを示すのです。(SI195) また、永井氏は、「私の知らない別の驚きを驚いた」と表現しています が、まさに今説明したことを言っています。(WS79) ここで、<私1>、<私2>という表現に対して、「その差異は何か?」 「差異の見当たらないものに、番号をつけて区別するのはおかしいではな いか?」という批判が出るかもしれません。 しかし、その者が「<私>」を有するならば、つまり単なる物質(コン ピューターなどの)でなければ、その差異ははじめから<理解>している はずです。 (この差異の問題に関しては、(8)において述べることと関係してくる。) #定義としてコンピューターには、「<魂>」はないとする。 (6)<私>と<今>の結び付き−−独<我>論と独<今>論の関係 ・永遠回帰 ルサンチマンの哲学P135では、「この今というものがあるというこ とによって、同じものが回帰するという考えは、それだけですでに反証さ れているんじゃないか」と述べられています。 (※「この今」と「同じもの」と上に、点が付く) そして、「いま、この世界と同じ世界が空間的に無数に存在すると考え てください。」と述べた後、「もしそいつらが単に全体質が僕と同じであ る人物にすぎないなら、そいつはこの僕ではありませんから」と説明し、 永遠回帰が生じないことのたとえとして挙げています。 しかし、私は前者と後者では決定的な違いがあると思うのです。 まず、後者に関して、説明を付け加えたいと思います。 この世界と同じ世界を1つ考えるとします。そこに存在する全体質が私 と同じである人物は、私と同じ性質で全く同じ人生を歩んでいきます。 さて、この”ある人物”は、私ではないのでしょうか? これは同じと考えていいような気がしないでもありません。 しかし、この2つの世界の一方の主観を<私1>、もう一方を<私2> とし、その世界に存在する<他人2>を考えてみます。 <私1>と<私2>は、全く同じ経験をしていきます。そういう意味で 世界は1つで経験を共有しているともいえますが、わかりやすく2つの世 界ということにしておきましょう。 この<私2>と<他人2>が入れ替わるケースを可能性として考えてみ ます。 すると、<私2>は<私1>とは別の経験を始め、<他人2>が <私1>と同じ経験をすることになります。 これは、<私1>(=この僕)と<私2>(=そいつ)が同じでないこ とを意味しています。 では、前者ではどうでしょうか? ある時間に<私>が経験した事を、有限の時間が経過した後、再び経験 します。 しかし、再び経験する主体は<私>であって、別のものではありません。 後者の例では、別のもの(<私1>と<私2>)でしたが、今度は同じ なのです。 それは、時間を空間に置き換えて、それと同じものが存在すると仮定し てたとえてしまったのが、違いが生じてしまった原因なのです。 そしてそれを避けるには、空間がループしている、つまり閉じた空間を 仮定し、その前方に存在する<私>を考える必要があるのです。 その場合、前は同時に後ろでもあり、<ここ>はただ1つであり、<私> もただ1つなのです。 それと同様に、永遠回帰では、過去=未来であり、<現在>はあくまで も1つであり、同じものが回帰するのです。 (ただし、過去の「現在」は、あくまでも過去であり、同時に未来でもあ る。永井氏は、<現在>と「現在」を比較したと思われるが、繰り返さ れるのは、<現在>+同じ世界である。) ・<今>−−<私>によって生じる概念 では、この永遠回帰思想から、<私>の存在を抜き去ったらどうでしょ うか? その場合は世界の存在自体がなくなってしまいますが、仮に時間の外か ら世界を眺めてみることにしましょう。 つまり、そこには歴史の順序だけが存在し、時間の流れはないわけです。 そこでは、永井氏が言及しているように、<私>は<存在>しません。 (それを記載している書物があれば、<私>は記載されない。) それと同時に、<今>も当然<存在>しません。 つまり、永遠回帰によって、過去と未来の区別がなくなり、<私>が世 界と結びつかなくなることによって、過去・現在・未来の区別がなくなる というわけです。永遠回帰でない場合は、<私>が世界と結びつかなくな ることによって、現在がなくなり、相対的な過去・未来の区別だけが存在 します。 しかし、これらの説明はすごく当然のことを言っているに過ぎません。 なぜなら、<私>によって、<今>は定義されるのであり、<私>が消 滅すれば、<今>も消滅するのは当然のことです。 ・過去−−<私>と<今>の残骸 しかし、先に述べたような<私>が世界と結びつかなくなる世界はない のでしょうか? 実は「ある」と言えます。それは、過去(の世界)です。 ただ、普通にあると言えないのは、物の存在と違って、その存在を感覚 によって確認できないからです。 過去は、かつて<今>でした。しかし、過去にはすでに<私>は<存在> しません。 では、<私>が存在する過去はあったのでしょうか? 「<今>は、もう<存在>しない」としか言いようがありません・・。 要するにあるようで、ないも同然ということになります。 もっとも、記憶には今、存在していますが、実在としての過去はそのよ うな見解にならざるおえません。そして記憶としての過去は、言うまでも なく”過去の世界の感覚的経験”とは異なります。 それは、<今>が残骸化したものに過ぎません。 そして、歴史の教科書には<私>も<今>も、当然記載されていません し、記載することもできません。 ・時間概念の分類と独<今>論 私は、以前に時間概念を、主観的時間(相対的時間)と客観的時間 (絶対的時間)にわけ、さらにそれぞれを2つにわけ、4つに分類して論 じています。 しかし、そこでの精神的主観的時間と共有主観的時間は、個人的に見る か、グループとして見るかの違いで本質的な違いはありませんので、主観 的時間と客観的時間にわけて対応させます。 1.主観的時間−−独今論が生じる。その中でも<私>の主観的時間に おいて、独<今>論が生じます。 2.客観的時間−−知覚や記憶等で時間を定義していないため、 独<今>論は生じない。 (7)<哲学>の主観性と「哲学」の客観性の比較 ・主観的と客観的、主観と客観 主観的・客観的という言葉は、主観と客観の関係によって成り立つもの です。主観による見方が主観的であり、それ以外の見方が客観的であると いうわけではありません。 論理は主観に関係なく存在すると主張するかもしれません。 しかし例えば、青と赤を混ぜれば紫になるという命題は、色を認識でき ない人には無意味となります。これが意味があると主張するならば、それ は宇宙の全生物が色を認識しない場合を考えるべきです。 それでも、意味があると言うのならば、その者は人間の五感以外による 命題の意味を理解できるかという問題になってきます。 つまり論理というものは世界に対する認識によって成り立つという意味 において主観によるものであり、論理空間を共有した場合に、その形式に おいて客観的といえます。 ・超越的自我と超越論的自我 次に超越的自我と超越論的自我の違いについて述べることにします。 超越論的自我は、客観的な存在としての世界に意味を与え、主観的な世 界を構成する主観のことです。この主観は、すべての人に当てはまるもの であり、「私」に対応する一般的なものです。 それに対し、超越的自我は、超越論的自我としての性質を有していなが らも、この世界に数ある超越論的自我の中で、自分と他人を区別するもの です。 ・超越論的超越的主観 さて、ここで問題となってくるのが、この超越的自我も数多くあり、 その中のどれが自分が見分けがつかないということです。 しかし、それは当然のことであり、そのような思考はナンセンスである と考えます。 なぜなら、その外側の視点を想定していないはずの超越的自我の外側に 別の視点を想定しているからです。この新たな視点を、超越論的超越的主 観あるいは間主観的主観と仮に名付けることにします。 そして、新たな視点に超越的自我を移動させているわけですから、見分 けがつかなくなるのは当然といえます。 この超越論的超越的主観は語義矛盾を起こしていて、存在しえないもの ですから、読み替えの運動は起こり得ないものなのです。 確かに言語ゲームにおいて、読み替えは必然的に生じるものですが、そ こで運動はストップし、無限の運動が続くということはないのです。 つまり、読み替えは原理的に必然的に生じるものですが、読み替えられ たものが一般化されているかどうかの判断すらできないのです。 ・<哲学>の主観性と「哲学」の客観性 この読み替えの問題は、<哲学>と「哲学」の違いということで考える ことができます。 「哲学」というのは論理が背景にあり、客観性というものが前提として あります。概念というものは、客観的に性質が同じであるものの一般化に よるものであり、時空の違いというものは考慮に入れられていません。 それに対し、<哲学>は主観的なものであり、時空の違いをも差異とな ってしまうために、あらゆるものの一般化がなされるということはないの です。 そして、<私>というものは、性質や時空というものを超越した存在で すから、差異が見られないのは当然といえます。 それを一般化してしまうは、「哲学」によるものであるから、変質が生 じるのは当然のことです。 しかし、<私>論は<哲学>によるものであるから、変質は起こり得な いのです。 よって、読み替えの運動は矛盾した考察によるものであり、決して生じ ることはないのです。言い方を変えれば、読み替えの運動は、<哲学>と 「哲学」を行き来することにより生じるものであり、言語ゲームは「哲学」 の方に属するものですから、もともと変質しているものしか扱えないので す。 これは(WM76)において、永井氏が「まったく同じ、といっても、 この私ではない、という点で異なるのであるから、客観的にはまったく同 じ、と言うべきかもしれない。」と述べていることと同じことです。 そして、その後に述べられている客観的な主観性こそが、存在し得ない 超越論的超越的主観なのです。 (8)自我と概念の根本的な領域の違い さて、これまでの考察を踏まえた上で、ここでは従来の<私>論という ものを根本から否定することになります。 それは<私>という概念自体が存在しえないということです。それゆえ、 <私>は概念ではないという考え方もできますが、それでは<私>とは何 か、概念とは何かを検討しなければなりません。 結論から述べると<私>というものは、<それ>を表記した時点で、す でに「私」と全く同じものであり、<私>と表記すること自体が語義矛盾 を起こしているのです。 たとえば、2つのりんごがあったとします。その2つのりんごは色・ 形・味・質量など、すべての性質が同じであったとします。 では、この2つのりんごは全く同じでしょうか? 一般的には同じです が、厳密には同じではありません。一般的に同じといった場合、性質が同 じという意味であり、厳密に言えばその2つのりんごを見分けられますか ら、全く同じとは言えません。 言うまでもなく、2つのりんごの位置が違うからです。位置がもし同じ であれば、その(それらの)りんごは2つとは言いません。明らかに1つ です。 仮に質量が2倍になったとしたら、その質量のりんごが1つということ になります。それは、ある質量のりんごがあって、そのりんごは半分の質 量のりんごが2つあるとは言わないのと同じことです。 同様に自我に関しても、<私>という架空の概念を持ち出さなくとも、 それらの間には明確な差があります。それは、それらの”位置”が違うと いうことです。これは、一見人間実在依拠型の変質に見えますが、そうで はありません。なぜならば、その位置は固定的であり、入れ替えることは できないものだからです。 仮に他人とすべての性質を入れ替えても、その位置は変わらないのです。 そしてそれこそが、ここで言う”位置”の定義ということなのです。 (当然、空間的な意味での位置とは全く違うので、仮に空間的な位置が同 じであっても、それらは別々であるといえる。) そして、<私>にしかない固有の位置を、<位置>とすれば、 <私>=「私」+<位置> となります。 すると今度は、「私」概念依拠型の<私>把握の変質が生じたように見 えますが、<私>の固有の位置と、他の固有の位置は違いますから、その ような変質は生じません。 例えば、それは「私には他人にない個性がある」といった場合、他人に もそれは当てはまりますが、それによって、私と他人が見分けがつかなく なることはないのと同じことです。それどころか、その個性によって、私 と他人との間に差が生じています。 (ここで述べられている「位置」を”超越論的位置”、<位置>を”超越 的位置”あるいは”独在的位置”と呼ぶことにする。) そして、この<位置>は自我と客観的な意味での世界が結びつく時に必 然的にできあがる独在的概念であり、<私>と他我を区別するものです。 しかし、自我と世界が切り離されると位置はなくなりますから、それまで 複数あった自我は1つになる・・・いや、1つとも複数ともいえず数とい う概念自体が消失します。 そのような切り離しが起こり得るかどうかはわかりませんが、少なくと も死というものはそのような事象である可能性があるということになりま す。(もっともすべて生物が死なないとそのようなことは起きないという ことになりますが) ですから、この自我は一般概念でも独在的概念でも表現し得ないものな のです。それは、自我を比較しても差がないから、一般概念に見えますが、 超越的位置によって、その差が生じてます。だから独在的概念に見えます が、世界との切り離しが生じるとその差はなくなり、独在性は消えます。 そもそも、概念とは自我が世界を認識した時に生じるものであり、同じ か違うかという差異の問題を自我に当てはめることが間違いのもとなので す。 だから、自我とはそういうものだと認識すべきであり、世界に対する考 察と同じように概念化することはできず、逆に世界に属するものの性質を すべて否定することによって表現できるものなのです。 (上記において<私>を概念化したが、それは”世界に対する考察と同じ ように”したのではなく、”超越論的位置”という”概念ではない概念 (独在的概念)”を用いたことによるものである。最初に”<私>とい う概念自体が存在しえない”と述べたのは、そのような意味においてで ある。) 言語ゲームとは、読み替えられたものを無限に生産する場であり、概念 化した時点ですでに変質が生じているのです。 ですから、独我論を語る時、便宜上<私>という表記を使うのは仕方が ないことであり、その一方でそれはスタートから変質していることを認識 して、その特異性を説明するしかないのです。 (補足1)ここで述べた”位置”を、(7)で述べた”視点”と置き換え れば、(7)と(8)の関係がわかりやすい。つまり、超越論的超越的主 観で見ることは、<視点>または<位置>を消失させることであるから、 <私>が一般化する、あるいは消失するのは当然のことである。 (補足2)(8)は元の文章の間違いを、後で修正したため、かなり回り くどい言い方になってしまった。この部分に関しては、新たな論文で整理 したいと思っている。 (9)独<我>論を語る意味 独<我>論は語り得ない。語り得ぬものは沈黙しない限り変質が生じ る。それを他人が理解してもかまわない。しかし、それを語ることにより 理解させることは不可能である。 いや、実は独<我>論は誰もが<理解>しているはずである。しかし、 その特異性を意識的に理解していない。 それを理解するには、もともと知っていることを自分自身で<哲学>す るしかない。それを理解をした者は、それをあえて語ることによって、ま だ理解していない者への手助けをすることのみが可能なのである。 ○終わりに 永井氏の<私>論は、他の哲学者によって、様々な批判や賛同がなされ てきた。それらの論評を分類すると、以下のようなパターンになる。 1 <私>論の問題の理解以前のひどい曲解による批判 (有名な哲学者がこれをすると、永井氏の著作で直接反論されることも 多い。) 2 <私>論の問題を理解していないがゆえの批判 (理解力の問題よりも、問題を共有していないことが根本的原因) 3 <私>論の問題を理解しているにも関わらず、変質の問題を充分理解 していないが故の批判 (問題に気づいているが、理解が追いついていないパターン) 4 <私>論の問題を理解し、変質の問題を理解しているが、うっかり変 質したり、問題を見失ったりしてしまった説明 (理論を追いすぎるがゆえに、うっかり生じるケース。 私もよくやる・・。) 5 <私>論の問題を理解し、変質の問題を理解し、賛同した上での新た な切り口による説明 たとえば、勝守氏は数少ない論評5のパターンだと思う。 しかし、永井氏の独在性の説明に賛同した上で、最小限の変質を説明し ても、それは現実的な伝達の過程であって、理論上はそのような過程は無 視され、即時に一般化されてしまう。 であるから、勝守氏の説明は、新たなる着眼点から、永井氏の説明と並 ぶものということはできるが決してそれを超えたものではない。 HP上でも公開され、永井氏の誤謬を指摘したとされる森岡氏はどうか というと、残念ながら私には論評2のパターンであると思える。つまり、 問題自体が永井氏のものとは違っていて、そこで語られている原則は、 「私」概念依拠型の<私>把握に陥っていると思う。 森岡氏は2の説明において、永井氏の入不二批判が概念化した瞬間の変 質についてのものであると解説しているにもかかわらず、3以降において 同様の間違いをおかしている。現にそこでの解説で”「独在的存在者」と いう概念”と述べている。 3の<独在性の原則・A>の原則1の説明を読むと、人間実在依拠型の <私>把握と「私」概念依拠型の<私>把握がごっちゃになっていて、後 者の変質の問題がすっぽり抜け落ちてしまっている。だから、4の最後の 場面想定で述べられていることは、人間実在依拠型の<私>把握を避ける にとどまっている。 さらに5において、”独在性のレヴェルとは、「他」なるものが原理的 に存在し得ないようなレヴェルのことである”と述べているが、これは認 識論的独我論に当たり、永井氏は(つまり<私>論は)、そのようなこと を問題にしていない。それどころか、他者の存在を前提とした独我論、そ れが<私>論である。 (しかし、独在性と独在的存在者とにわけ、前者については語ることはで きるが、後者については語れないことを述べているという点は評価でき ると思う。) (補足)独在的存在者が<私>に対応していることから、上記のような見 解になったわけだが、どうも独在的存在者とブラフマンを対応させている ところから、「私」の総体として独在的存在者をとらえているように思え るし、その方が整合的理解がしやすい。そうなると、「私」概念依拠型の <私>把握には陥らないが、依然として<私>論の問題を共有していない と考えられるため、論評2である見解に変わりはない。 それに、その解釈だと独在的存在者が<私>に対応していると考えるに は無理がある。「独在的存在者とはこの私である」といった場合の、この 私は、単独性の私のことであるが、私にとっての「私」と他人にとっての 「私」との差異の問題が依然として残っており、その差異を表すのに <私>を新たに導入しなければならなくなる。 いずれの解釈にしろ、森岡氏本人とのメールのやりとりで、まだ理論を 展開しきれていないので、次回作できっちりさせたい旨の返事をいただい たので、私の森岡理論への判断はいったん保留にしたいと思う。 であるから、独在性の対象は”<私>”と表現しても、”独在的存在者” と表現をしても、”<!>”と表現しても、結局は一般化されてしまうた め、変質を避けることはできない。 ゆえに、他の哲学者は永井氏を超えることはできないし、そして永井氏 自身もウィトゲンシュタインを超えることはできない。 (しかし、<私>を語った場合の変質を指摘した永井氏の解説が非常に評 価できるものであることに変わりはない。) 仮に変質を意識して、比類なきものであることを指摘した上で論じたと しても、永井氏からすれば、「それは<私>ではない」とその理解は否定 の対象となる。 ところが、問題を理解した他の哲学者からすると、永井氏のいう<私> こそが否定されるべきものである。 結局、永井氏がそれらの哲学者の見解を否定することにより、自分自身 の見解を肯定すると同時に、否定もすることになる。 だから、独在性の対象について語るのは無意味であり、問題を理解した 者の見解に対して、否定も肯定もできないはずである。 (否定をすると自分の見解を否定することになり、肯定すると変質が生じ ることにより、自分の見解を否定することになる。) だから私は究極的には、他人に自分の解説を正しいとか、他人の<私> 論の解説が間違っているとかいった主張をすることはできず、”<私>” とか”独在的存在者”と語ることすらできない。 (あくまでも”究極的には”という話であって、説明の便宜上そのような 表現を用いることはある。) そして、それこそが<私>論に先に気づいたウィトゲンシュタインや、 永井氏と並ぶ唯一の方法である。 それ以上、進めない地点に到着したら、そこに留まるか、その周辺をう ろついて、またその地点に戻ることのみが可能であり、その地点を超える ことは決してできないのである。 ただし、よりその地点へ行きやすくする方法を見つけるという意味で、 それまでの<私>論を超えることは可能である。 |